[2日目](その2)
大酒神社
大酒神社(おおさけじんじゃ)は、嵐電嵐山本線「太秦広隆寺」駅から直線130m(徒歩約3分)で、「木嶋神社」からも徒歩約十分の近距離にあります。
鳥居
元の神社の名称が「大避(おおさけ)」あるいは「大關(ダイビャク) 」とされており、「大關」は 中国(China)ではキリスト教の「ダビデ」を意味するとも云われている。
鳥居の先にはある、円形にくり抜かれている石柱。
「皇紀二千六百年秦祝記念」(1940年:神武天皇即位紀元から2600年)と書かれてある。
鳥居をくぐり参道を進むと手水舎があるが、水は張られておらず、使用されてないようです。
本殿
大酒神社は、京都盆地一帯を開発した渡来系氏族「秦氏」が、彼らの祖である秦の始皇帝を祀ったのが創建とされている。
元々は、秦氏の氏寺、「太秦広隆寺」にある桂宮院の後方に鎮守として鎮座していたが、明治の神仏分離政策で広隆寺の境内から現在の場所に移され、1970年(昭和45年)の道路開通によって境内は分割された。
御祭神
主祭神は、秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)の3柱。
境内由緒書
『当社は、延喜(えんぎ)式神名帳 葛野(かとの)郡20座の中に大酒神社(元名)大辟(おおさけ)神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは 秦始皇帝の神霊を仲哀(ちゅうあい)天皇8年(356年)皇帝14世の孫、功満(こうまん)王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴(じゅんぼく)なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請(かんじょう)す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
后(のち)の代に至り、功満王の子弓月主、応神天皇14年(372年)百済(くだら)より127県(あがた)の民衆(ともがら)18670余人統率(とうそつ)して帰化(きか)し、金銀玉(ぎょくはく)等の宝物を献上す。又、弓月王の孫 酒公は、秦氏諸族を率て蚕(かいこ)を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類(たぐい)を夥(おびただ)しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐(うづまさ)の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社(やしろ)を大酒神社の側(かたわら)にありしが 明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
機織(はたおり)のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努(つと)め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
今大酒の字を用(もち)いるは酒公を祀るによって此の字に改む。
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在 広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前 広隆寺の伽藍(がらん)神であった当社の祭礼である。
尚、603年 広隆寺建立者 秦河勝(かわかつ)は酒公の六代目の孫。
又、大宝元年(701年)子孫 秦忌寸都理(いみきとり)が松尾大社を創立。和銅4年 (713年)秦伊呂具(いみぐ)が伏見稻荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した、秦氏族の祖神である。
昭和59年5月』(原文のまま)
祭礼「牛祭」
大酒神社の祭礼としては、10月12日夜(古くは旧暦9月12日)に行われる牛祭(うしまつり)が知られる。
長和年間(1012年-1017年)に源信(恵心僧都)が念仏守護神として麻多羅神を勧請したのに始まると伝え、神仏習合期は広隆寺の僧侶によって斎行された。
祭りでは異形の面をつけた麻多羅神役の者が牛に乗り、四天王・行列を従えて広隆寺境内を練り歩き、最後に薬師堂前で祭文を読み上げる。
この牛祭は、由岐神社の鞍馬の火祭、今宮神社のやすらい祭りと合わせて京都三大奇祭と言われ、京都市登録無形民俗文化財に登録されている。
一ノ井遺跡
大酒神社見学後は、近くにある一ノ井遺跡に立ち寄る。
木嶋神社、大酒神社、一ノ井遺跡の位置関係
一ノ井遺跡は、秦氏の有力者、秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊としたと伝わる広隆寺に近接している。
2021年に当地で発掘調査が行われた結果、鎌倉時代の柵や井戸跡、室町時代前期の建物跡などが発見された。
駒札
『当地は、秦氏の有力者、秦川勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊としたと伝わる広隆寺に近接しています。
また、奈良時代から江戸時代の遺跡、「一ノ井遺跡」に含まれます。
2021年に当地で発掘調査が行われた結果、鎌倉時代の柵や井戸跡、室町時代前期の建物跡などが発見されました。鎌倉時代の遺構が真北に対し北東に約三度振れているのに対し、室町時代の遺構は北西に約五度振れています。
鎌倉時代の軸線は「山城国葛野郡班田図」の条里の方位に近似しており、古い様相を示しています。一方、室町時代の遺構は広隆寺旧境内の伽藍の軸線と近似しており、周辺の調査成果からも室町時代の広隆寺門前の繁栄を考える上で大変貴重なものです。』(原文のまま)
柱石(一ノ井遺跡出土)
『一ノ井遺跡では、室町時代前期の建物跡を構成する柱穴の中より、挙大〜人頭大の石が多数見つかりました。当時の建物は地面に穴を掘り、そこに柱(掘立柱)を立てるつくり方で、建物の沈下防止の為に、柱の下に扁平な石(礎盤石)が据えられました。この建物跡は破却された後、柱穴の中に礎盤石がそのまま残された状態で埋没したと考えられます。』(原文のまま)
この後、地下鉄で祇園祭の閲覧席に戻り、祇園祭を見学します(続く)。
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