1990年の年末から1991年の年始にかけてパキスタンを旅行しました。
旅の概要ですが、①モヘンジョ=ダロ遺跡、②パキスタン経済の中心地カラチ、③ハラッパー遺跡、④カラチに次ぐパキスタン第2の都市ラホール、⑤アフガニスタンとの国境付近のペシャワール、⑥ガンダーラ遺跡の点在するスワット地方、⑦ガンダーラ王国時代に栄えた仏教遺跡タキシラ、⑧パキスタンの首都イスラマバードの順に回りました。
第5回目は、ギリシア・オリエント世界とインド世界をつなぐ文明の交差点カイバル峠の麓にある、アフガニスタン国境近くの町ペシャワール観光です。
[6日目]
ペシャワール随一の高級ホテル、パール ・コンティネンタルにで朝食後、ペシャワール市内観光へ。
ペシャワール博物館
ビクトリア様式の赤レンガの建物。ガンダーラ美術を中心に、北西辺境州の各民族の衣装や手工芸品等を展示している。
ガンダーラ美術の最高傑作の一つ「痩せ衰えたシッダールタ」。損傷が激しいが、目が窪み肋骨が浮き出ており、極限まで断食した人体がリアルに表現されている。ラホール博物館で見学した「断食するシッダールタ」(下の写真)よりも痩せ衰えているように見える。
博物館見学後は、カイバル峠のあるアフガニスタン国境付近へと向かう。
カイバル・チェックポイント
アフガニスタンとパキスタンの国境近くにあるカイバル峠は、古くはアレキサンダー大王の軍勢がここを通ってインドへ向けて進軍し、7世紀には唐の玄奘三蔵がインド世界へと足を踏み入れた「文明の交差点」。
このカイバル・チェックポイントへは、ペシャワールの市街地から十数km程度でそれ程遠くはないが、カイバル峠まではまだ倍近くもある。
しかし、ここから国境までは、トライバル・エリア=部族地域と呼ばれるパターン族(パシュトゥーン族)の自治区に位置し、外国人の立ち入りは制限されている。カイバル峠を通過するには、カイバル・ポリティカル・エージェントの特別許可が必要となる。
遥か国境付近の町まで、単線の線路が敷設されている。
おっと、ここで迂闊にも、カラシニコフ銃を持った護衛兵に捕まってしまう(笑)。
パターン族(パシュトゥーン族)の家
この辺りは部族地域(自治区域)となり、部族の掟による自治にまかされている。パキスタンの法律は、国道上にしか適用されない。それ以外のところで何が起きても責任は保障されないフリーテリトリー。
パターン人(自分達は「パシュトゥーン人」と呼び、パターン人とは呼ばないらしい)の銃の製造は世界的にも有名であり、麻薬の栽培と密売や外国からの密輸製品の取り引きも盛んである。これはみな部族地域を利用して行われている。
無法地帯ゆえ、公然とハッシッシー(麻薬)を吸っている。
パシュトゥーン人の村。
中には、2階建の家も。
パキスタンとアフガニスタンの二国間の協定により、アフガニスタンの商品はフリーパスで通すことになっている。パシュトゥーン人はこの特権を利用して、一度アフガニスタンに持ち込んだものをパキスタンに逆輸入させて税抜けした品々をペシャワールなどの町に持ち込み、密輸品バザールとして安く売っている。
アフガン難民キャンプ
ペシャワール市街地へと戻る街道途中、左手にアフガン難民のキャンプ地が見えてくる。
アフガニスタン紛争を避けるために、当時アフガニスタンから隣国のパキスタン、特にペシャワール近郊に約300万人の難民が逃れてきたらしい。
ペシャワール大学
さらに進むと、左手にペシャワール大学が見える。
意外とアカデミック。
キサ・カワーニ バザール
ペシャワール旧市街にあるバザール。
一日中いても飽きないような何でも有りのバザールを楽しんだ後は、マハバット・ハーン・モスクへ。
マハバット・ハーン・モスク
1630年、ムガール皇帝シャー・ジャハーンの時代に、ペシャワールの領主であったマハバット・ハーンにより建造される。ラホールのバードシャーヒー・モスクの小型版。
キャラバンサライ跡
マハバット・ハーン・モスクの向かい側には、木造3階建のキャラバンサライ跡がある。
昔、隊商の人馬に寝床を提供していたキャラバンサライが今では、バザールのように再利用されている。キャラバンサライ跡を見学後は、宿泊先のペシャワール・パール・コンティネンタルへ戻る。
次回は、ガンダーラ遺跡が点在するスワット地方です(続く)。
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