宮崎県との県境・高千穂峰の麓に鎮座するパワースポット霧島神宮から、薩摩半島最南端の岬(長崎鼻)まで、鹿児島県を縦断し、15のスポットを巡る3日間のツアーに参加しました。スポットを巡った順に番号で示します。
初日は、①仙巌園で桜島を望む雄大な庭園を楽しんだ後、②鹿児島城跡や③西郷隆盛像を訪れ、④城山展望台で桜島と錦江湾の絶景を堪能し、朱塗りの本殿が美しい⑤霧島神宮参拝後、霧島温泉郷のホテル霧島キャッスルに宿泊します。
[1日目]
朝8:00にJAL643便で羽田空港を飛び立ち、1時間半程で鹿児島空港に到着。
ツアーバスに乗車し、先ずは、錦江湾を隔てて桜島を借景とする庭園・仙巌園へと向かいます。
途中、車窓から見える桜島。頂上は、噴火ではなく、雲がかかっている。
①仙巌園
仙巌園は万治元年(1658年)、19代光久によって築かれた島津家別邸で、錦江湾や桜島をとりいれた雄大な景色が美しく、 自然と人工とが調和した借景式庭園。
およそ1万5千坪の広大な庭園には、四季折々の花々が咲き誇り、江戸時代の正門である錫門(すずもん)や、全国でも珍しい猫を祭った猫神、など、見どころが満載です。
正門
明治28年(1895年)、29代島津忠義が建てさせ た正門です。建材は樟(くすのき)が使用されています。 門の上部中ほどに島津家の家紋・丸十紋が、 その左右には同じく島津家の家紋である桐紋 が彫られています。
錫門
江戸時代に正門として用いられたもので、屋根は錫の板でふかれている。江戸時代は当主とその世継ぎしか通れませんでした。
御殿
19代島津光久が屋敷を構えて以来、仙巌園は別邸として歴代当主に受け継がれました。しかし、明治4年(1871)の廃置県で、島津家の人々は鹿児島城(働丸城)からここに移り、明治17年(1884)には御殿の大規較な改築が行われました。現在は当時の約3分の1の建物が残されています。
獅子乗大石灯籠
園内最大の石灯籠。灯籠の上部には、江戸時代の別邸にあった飛獅子が乗っています。
桜島展望ポイント
桜島を望む雄大な庭園内の絶好のビューポイントです。
千尋巌
仙巌園の中心部にある磯御殿の裏山の上の方の岩には「千尋巌」と刻まれています。千尋巌の意味は、「とても大きな岩」というような意味があるそうです。
27代島津新興の時代に延べ3.900人余りの人員で3カ月をかけて刻まれたものです。3文字で約11mの大きさがあり、胡粉という顔料で塗られています。景勝地の岩に文字を影ることは中国ではよく見られますが、ここにも中国文化の配置がうかがえます。
水力発電用ダム跡
日本における草創期の水力発電施設です。
曲水の庭
「曲水の庭」は江戸時代に作られたと考えられ、ここを舞台として、春の行事「曲水の宴」が行われます。「曲水の宴」は、庭に作られた水路の上流から酒を注いだ杯を流し、目の前に流れつくまでに和歌を詠む優雅な行事です。
御庭神社
鹿児島城や仙巌園以外の別邸などに散在していた13の神社を、明治時代に仙巌園に移し、大正7年にそれらを合祀した神社です。
水道橋
猫神
全国的にも珍しい猫を祀る「猫神」。島津家17代義弘は戦場に7匹の猫を連れて行き、猫の目の瞳孔の開き方を見て時刻を推測したといわれており、無事に帰還した2匹の猫の霊を祀ってあります。
土産処 薩摩のれん
途中、仙厳園の「土産処 薩摩のれん」で休憩。中にある「有村屋」というさつま揚げの店のレンコン天を注文。少し甘めの天ぷら。串で刺して有るので、とても食べ易い。
鶴嶺神社
仙巌園の入り口あたりにある「鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)」。
島津家の当主のほか、島津家の分家・玉里島津家(たまざとしまづけ)の歴代当主とその家族らが祭られている。
②鹿児島城跡(別名:鶴丸城跡)
鹿児島城は、慶長6(1601)年頃、のちに初代薩摩藩主となる島津家久(第18代当主)が建設に着手した城で、鶴丸城の名で親しまれています。
鹿児島(鶴丸)城は山から平野にかけて城を築く「平山城」でした。藩主の居所(居館)は城山を背にして建てられ、居所を中心に海側に向かって城下町が築かれました。
なお、鹿児島城は、文久3年(1863)の薩英戦争で砲撃を受け、明治6年(1873)の火災で本丸が焼失。さらには、明治10年(1877)の西南戦争で二の丸も炎上するなど、幕末から明治期にかけて大きな被害を受けました。このため、当時の城の建物遺構は残っていません。
現在は、本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。
黎明館(鹿児島県歴史資料センター)
島津家の居城鹿児島城(鶴丸城)の本丸跡に建てられた県の歴史資料センターです。
鹿児島の歴史民俗や文化遺産に関する展示が行われています。
黎明館の入口横には、御楼門建設に用いられた技術法や屋根に使われた瓦、鯱(しゃち)の展示があります。
御楼門の鯱(しゃち)は、平成、令和の御楼門再建の際、江戸時代後期に行われた補修と同じく、青銅製としています。
黎明館見学後は、鹿児島(鶴丸)城の表玄関で、城のシンボルとも言える御楼門へと向かいます。
御楼門
御楼門は、明治6年(1873 年)の火災で焼失しましたが、2020年に日本最大の城門として復元されました。
黎明館から正門を出ると、丸に十の字・島津家家紋の旗が多数風になびいています。
御楼門の大扉は片側で、約1.4トン 縦5メートル、横2.5メートルあります。
堀池に囲まれた門で、夏の頃は蓮が咲き誇ります。
車が多く行き交う国道10号線沿いに佇む御楼門正面。城門は高さ・幅・20メートルで二階建て。日本最大級を誇ります。
西南戦争の痕跡
御楼門部周辺の石垣には、無数のくぼみが見られます。このくほみを観祭すると、銃弾や砲弾の破片が食い込んでいるものがあります。周辺の発掘調査で見つかった銃弾や砲弾などから、これらの多くは、明治 10(1877) 年の西南戦争の際の痕跡であることが分かりました。
熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、明治10年9月、故郷鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し最後の決戦に挑みます。これに対し政府軍は約5万人の兵で包囲し、西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。
御楼門部周辺の石垣に残るこれらの弾痕は、当時の銃撃や砲撃の凄まじさを今に伝えています。
③西郷隆盛像
鹿児島市立美術館の屋外に建っている西郷隆盛像。
東京上野にある有名な銅像は浴衣を着けて犬を連れているが、こちらの銅像、陸運大将の姿をしている。
この銅像の作者は安藤照という彫刻家で、渋谷の初代ハチ公像を造った人物。
④城山展望台
市街地の中心部に位置する標高107mの「城山」。
緑に囲まれた展望台からは鹿児島の市街地が広がり、錦江湾、桜島が一枚のフレームにきっちり収まる絶好の撮影スポット。
天気の良い日には遠く霧島や指宿の開聞岳も見え、夜景が美しいことでも有名です。
上の写真の中央下の鳥居は、照国神社の鳥居。
城山は明治10年(1877年)の西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在します。
西郷洞窟
明治10年(1877年)年2月、西南戦争において鹿児島城下を出発した薩軍は、九州各地で転戦したのち、8月に解散。その後西郷隆盛の一行は九州の山間地を越えて鹿児島を目指し、9月1日、再び城下に戻り、城山に立て籠もりました。
桐野利秋をはじめ私学校の幹部たちとともに、銃弾に倒れるまでの最期の5日間を過ごしたのがこの洞窟と言われています。西郷隆盛が最後まで薩軍の指揮をとっていた場所として重要な史跡です。
この後、霧島神宮へと向かい、参拝後は、霧島温泉郷のホテル霧島キャッスルに宿泊します(続く)。
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